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なぜ品川駅は『港区』なのか

おはこんばんにちは、GEクリエーションです

JR在来線東海道新幹線などが乗り入れる「品川駅」は、

都内でも有数のターミナル駅です。

乗車人員では、2013年度1日平均合計335,661人と国内6位です。

ちなみに1位は、新宿で751,018人です。

面白いのは、駅名に「品川」とありながら、実は住所が「東京都港区」ということ。

この事自体、意外と知られていないことでもありますが

今回は、なぜ「品川」駅なのに、港区なのか。考えたいと思います。

そもそも「品川」とは、北品川と南品川の間を流れる目黒川のことでした。この川が

江戸時代に整備された五街道の一つ、東海道五十三次の第一の宿場「品川宿の名の

起源とも言われています。この「品川宿」は、日本橋から最も近い宿場として、江戸

四宿(品川宿内藤新宿、板橋宿、千住宿)で一番賑わっていました。

当時の地図を見ると、品川宿」は現在の「品川駅」より南に位置していました。

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ここで、人々の往来の要であった「品川宿」に、なぜ「品川駅」が作られなかったか

疑問がわいてきます。その理由には鉄道開設が関係しています。

 「品川駅」が誕生したのは1872年(明治5年)旧暦5月7日。日本で最初となる旅客鉄

道が建設される前段階として、品川ー横浜間の仮営業が始まりました。その後、新橋

ー横浜間の正式な開業となったのは同年9月12日です。

新橋(当時は汐留)ー品川間の工事が遅れたのは、線路の敷設が計画通りに進まなか

ったことが原因。

当初は、品川宿」を含む、海岸沿いの市街地ルートを計画していたのですが、「品

川宿」の利用者や住民からの反対の声が多く、用地取得がうまくいきませんでした。

そのため、用地取得の必要のない海の上に築堤を造成して線路を敷設。「品川宿」よ

りも北側の開けていた地域(当時の高輪南町)に「品川駅」が建設されることになり

ました。

明治維新とも重なったこの時期、首都が江戸へうつり、東京となったのを機に、町名

の整備が行われました。

1869年(明治2年)に現在の「品川駅」を含む東京23区の西側一体と周辺の県の一部を

含む広大な地域は「品川県」とされましたが、1871年(明治4年)の廃藩置県で廃止。

 15区6都への改編により、「品川駅」周辺は芝区となりました。そして、1947年(昭

和22年)に、芝区は麻布区赤坂区と合併し、新たに港区が誕生。これにより、

「品川駅」のあった場所は、そのまま港区となったのです。